コブラ現代美術館における鳰川誠一(コブラ展カタログより)  
   
 

日本の現代美術には、常にそれ以前の絵画の伝統が内在する。これは西洋美術との重要な相違点である。ヨーロッパにおいて絵画芸術は、革新と過去との決別への絶え間ない希求として存在し、前時代を乗り越えて行く前衛運動として現れてきた。第二次世界大戦後のオランダで、コブラ派の面々が新しい活力を爆発させていた時、日本では、独立美術協会の芸術家らが先駆的な役割を担っていた。日本の画家、鳰川誠一(18971983)1948年この運動に参加、日本の伝統的な水墨画と西洋の表現主義との間で実験を試みた。

 日蘭修好400年に際して、コブラ美術館が開催する個展により日本の現代画家鳰川誠一の作品がオランダで初めて公開される。ヨーロッパでは1972年にブリュセル、アントワープ、ルクセンブルグで作品が展覧されている。コブラ美術館での展覧会は、同時期のコブラ派と比較するため、19451965年の実験的絵画に焦点を当てる。

 線的なコンポジションと日本の木版芸術の組み合わせに、強烈な色彩とフランス・フォービズムの抽象性を融合する鳰川の作品は、既視感と戸惑いの戯れを引き起こす。この日本人の試みは他に例が無い。油彩と水彩と日本の墨が一つの絵に使われているのだ。題材についても同じ事が言える。風景画、花の静物、女性の肖像、胸像などは、一見西洋美術の範疇にある確固たる主題なのだが、よく鑑賞するとただ風景や花や顔なのではなく、材質(絵の具)自体による感覚の造型がなされていることがわかる。黒の筆ずかいや滑らかな色彩の中に、複雑な色が内包される。鳰川は物語りを語るのではなく、絵によって御しがたく、予知できない現実界を提示するのだ。調和と混純、構築と解体の情動的闘争がそれぞれの作品に現れる。

 鳰川誠一は1897年に千葉県茂原市(東京よりひがし約50キロ)の農家にうまれた。18歳で上京、絵を描き始める。白馬界葵絵画研究所に入学するが結核にかかり断念して帰郷。郷里で短期間中学の教師を務める。彼の1920年代は常に病気とともにあったが仕事もやめて制作に没頭し、独立した画家になる。1931年に、パリのフォービスト、モリース・ド・ブラマンクのもとで学んだ里見勝三の知遇を得、彼により西洋現代芸術を知る。里見に学び1934年に独立美術協会展に入選する。

19世紀の半ばより日本では西洋美術の発展が知られ始め、1911年頃には日本の美術界でも独立して画料で生活するものが現れていた。西洋美術の発展を知るための重要な情報源は、当時の新しいメディアである新聞・雑誌、特にイギリスのそれらであった。これらの情報源から日本人は後期印象派以降のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マチス、ピカソなどを知る事になる。幾ばくかの日本人は自らの目でそれを確かめるためヨーロッパへ向った。

1930年代、日本の現代芸術は活況を呈する。西洋からのフォーヴィズムの影響と日本画の伝統への再考が、それらの表現を高い水準に引き上げた。里見勝蔵が設立した独立美術協会をはじめとして、様々な芸術家集団が展覧会を開いた。しかしファシズムがヨーロッパに表現の自由の終末をもたらしたと同様に、日本でもナショナリズムの高まりが聞こえてくるのであった。戦後、盛年に達した鳰川は病を脱し、その絵画表現も最盛期に達し1983年に死去するまで、墨と油彩・水彩を使った試みが続いた。風景画、花の静物画、女性像などは生涯のテーマとして現れる。時に彼は作品に「田園と花火」のように物語性のあるタイトルを付けたが、これらのタイトルが鳰川の創り出すイメージと結びつきを持つ事は稀で、場所や人物は匿名性を帯びている。

 鳰川の作品はコブラ派のアーティストらの作品と境遇を共にしているとも言える。戦前のパリからのフォーヴィズムと同様に、日本の水墨画はコブラの実験絵画に影響を与えた。1948年のコブラ創設の中心メンバーであるクリスチャン・ドートレモンは、日本の書画を視覚芸術革新の創造源としたし、ピエール・アレシンスキーは、日本の水墨を独自に試みた後、自由で闊達な筆の動きを発見している。日本の山水や禅などのテーマはアレシンスキーの作品に度々現れ、中でも注目すべきは鳰川の試みのようにアレシンスキーにも日本の墨を使用した作品があることである。鳰川の作品とコブラ派の作品の邂逅が提示するのは、東西の実験芸術が、一般に受け取られているよりも、共通点をもっていることである。しかし同時に、視覚芸術作品に対する感受の仕方は、世界共通とは言えないことも新たに感じさせる。風景や静物画に現れる蝶、黒く塗られた女性像などが象徴するものは、西洋と日本では異なる意味を持ち得る。西洋の(寓意的)文脈に置くと鳰川の作品は難解なエキゾチズムと魔性敵な魅力を発しはじめる。


コブラ現代美術館学芸員

リース・ネーテル